昊天宮は、今から二千年程前、郡平野に文化を築いた時代があり、当時の豪族がその一門の氏神をして建国の祖神をお祀りしたことに始まる。御縁起並に伝書等天正二年焼失により御代草創が明らかでないが上古より西方の鎮(しずめ)として肥前国彼杵郡の総鎮守となっている。大社として元明天皇の和銅五年(712年)に行基菩薩が御神体を郡ヶ岳の聖域で謹製奉納した。
大村家御支配(平安時代)となりては、初代直純公を副祭して御歴代の守護神として御尊敬深く、兵乱には武運長久を祈り田地等数多く御寄進あり、祭祠の礼も最も厚く郡内はおろか他郡から貴賤老幼の参詣者群をなし、お祭りも大へん賑やかに執り行われていたが、文明六年十二月に、大村信濃守純伊公、有馬氏と萱瀬で数度合戦されたが、御勝利なく加々良島に潜居七ヶ月に及んだ。
この間日夜御祈願になり、御身を本堂川に於いて垢離(身を清める)千日参拝するとの誓願を立てられ、武運の開発を祈られましたところ、霊夢を得て大勝利となり、文明十二年八月九日に御帰領になった。ここに昊天大神の思頼を尊び、祭祠の礼を厚く、社殿の造営を壮に、神田の寄進数町等、神社の面目を一新せられた。
この時、幸を恵まれたと言う意にて幸天(こうてん)と改名された。現在、市内の松や桜が付く地名は、昊天大神の神恩感謝に由来する。江戸時代には、大村藩総鎮守神と尊ばれた。
平成二十四年十月、氏子崇敬者の赤誠により平成御造営がなされ、御本殿以下の建物が完成。古代以来再び大社の威容を拝するに至る。